今から四五〇年程前、一五四九年、フランシスコ・ザビエルによって初めてキリスト教が日本に
伝えられました。そして、信じる人々がしだいにふくれあがってゆきました。しかし、豊臣秀吉・
徳川幕府によるキリスト教弾圧が始められ、たくさんの信徒たちが殉教してゆきました。彼らは拷
問にも会いました。また、キリストと同じように十字架に磔にされました。しかし、彼らは屈せず喜
んでキリストのために殉教して行ったのです。
「いったい何が殉教者たちを強くしたのだろうか?」この問題を考え始めたのが教会に行くきっ
かけとなりました。自分の弱さを痛感していた私、また、人生のバック・ボーンを探し求めていた
私にとって、それはどうしても知りたいことでした。そこで私は調べ始めました。本を読みあさり
ました。長崎の殉教者の資料館へ行きました。聖書も読み、友人のクリスチャンにも会いました。
しかし、この問題の解答は与えられませんでした。
そして、その解答を得るために、近くの教会へ行きました。私が十九歳のときです。ですが、私は
教会へ行きにくかったのです。というのは、ある日、私のクラス・メイトがクリスチャンになった
のです。それを聞いた私は、彼に向かって皆の前で大声で「お前は弱いからクリスチャンになった
んだ。俺は強い人間だから絶対にクリチャンなどにはならん!」(実は自分の弱さを知ってい
ながら隠していたのですが)と言ったのです。ですから教会へ行きにくいなんていうものではあり
ませんでした。しかし、どうしてもその解答が得たくて勇気をふりしぼって教会へ行きました。その
ときは緊張していて聖書の話を聞くといった状態ではありませんでした。そんな私でしたが二度目
に教会に行ったとき、『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い
ものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなりました。』(コリントU五・十七)という聖書の言葉が
講壇の牧師先生から語られました。それを聞き私は「新しくなりたい!」と思いました。
集会が終わり牧師先生が私に「能城さん。イエス様を信じませんか?」と言われました。私はすなお
に「はい。」と答えました。というのは「そうだ信じてみよう。信じるなら私は新しくなるんだ。信
じても何も私の身に起こらなければやはり聖書はうそっぱちなんだ。もしそうだったら教会へはも
う来まい。」と考えていたからです。牧師先生が私のために祈ってくださいました。その間、私は心
の中で「イエス様、もしあなたがおられるなら私を新しくしてあの殉教者たらのような力強い人生
を歩ませてください!」と叫びました。そのときから私の人生は全く新しくなりました。「何が殉教者
たらを強くしたのか?」その解答がはっきりと得られました。それは、信じる者に働くキリストの
力なのです。私もこの力を得ました。信じるならだれにでも、この力が与えられるのです。